Ryuichi Sakamoto Diary vol.22

教授動静 第22回──坂本龍一、新型コロナウイルスの抗体検査を受ける

“教授”こと坂本龍一の動向を追うライター・編集者の吉村栄一による「教授動静」。第22回は、日本からニューヨークの自宅へ戻った教授の様子をお届けする。

日本から戻って以来、教授はずっと巣ごもり中だ。
4月の中旬にニューヨークの自宅に戻り、それからはずっと作曲と音楽制作のみの毎日。

「ニューヨークはここ最近、いろいろな数値が落ち着いてきました。ぼくが戻ってきた4月の中旬あたりが感染拡大のピークで、間が悪いことにぼくはピークがこれからという時に帰ってきてしまった(笑)」

外国から戻ってきたニューヨーク市民は自宅やホテルで2週間の自主隔離となるが、その期間が終わっても、これまで教授が家の外に出かけたのは一度だけだという。

「先週、かかりつけの医者のところに新型コロナウイルスの抗体検査を受けに行ったんです。それがいまのところ最初で最後の外出ですが、きのうその結果がちょうど出て、陰性でした。つまりこれまで未感染で抗体ができていないということなので、ちょっとガッカリしました(笑)」

抗体検査の結果は陰性だった。いまだ未感染

一度かかって無症状のまま自然と治り、体内に抗体ができていたら今後再感染〜症状化しない可能性が高い。先日、マドンナが抗体検査の結果、抗体を得ていることがわかって発表し、話題にもなった。

「ぼくも陽性だったらいいなあと思っていたのですが、ただ、陽性の場合は自分は無症状でよくても、他人に感染させてしまう可能性もあるので、自由に振る舞えるわけではないですが」

ともあれ、落ち着きつつあるとはいえ、まだ先の見えない状況の中、音楽制作を続けている。

「日本の場合はただの自粛要請だけど、ニューヨークは外出禁止(ロックダウン)という強い命令。基本、必要で緊急の用がないかぎり外に出てはいけない。みんな大変で、とくに商売をしている人は苦労していると思います。

それにくらべると気楽なものだと思うのですが、ぼくの場合はあまりふだんと変わらない生活をしている。自宅スタジオでの作曲とレコーディングというのが、ぼくの仕事の9割を占めていて、外部のスタジオに出かけるという割合は1ぐらいしかない。そういう意味では生活スタイルがラッキーだし、もともと外に出たがる性格でもないので、自宅にこもることが苦にならない」

唯一、苦になっているのは、行きつけのレストランで食事できないことぐらいだそうだ。

人間の姿が消えたロックダウン下のマンハッタン

そんないま、自宅作業で主となっているのが映画やドラマのサントラの制作。

「いまやっているのは新型コロナウイルスが世界的に蔓延する前に依頼された仕事です。現在、世界的に映画やテレビドラマの撮影はほぼストップしていて厳しい状況にありますが、映画もドラマも、撮影が終わったあとの編集やCGの作り込みなどに何カ月も何年もかけたりする。サントラの音楽制作もそのひとつ。これらは基本的に少人数か個人で行なえるもので、そういう撮影済みの映画やドラマの作業はいまも進んでいます」

こうしたポスト・プロダクションの段階にある作品の音楽作りを進めているが、今後まだ映画、ドラマの撮影再開が遠のくのであれば制作作業の多くをリモート環境で行なうことができるアニメーション作品が増えるのではないかとのこと。

「おそらくいま、『そうだアニメだったらできる』と多くの企画が立ち上がっていて、それらが完成して公開されるのは3年後ぐらいだから、その頃はアニメ作品が多くなるんじゃないでしょうか」

アニメーション作品といえば、教授が33年ぶりに手がけたアニメーション映画『さよならティラノ』(https://www.sayonara-tyrano.jp/index.html)は今夏に日本公開の予定だが、スケジュールどおりに観ることができるだろうか?(5月中旬、公開延期が発表された。新たな公開時期は未定)

病院に横付けされたご遺体を安置する冷蔵車

毎晩7時は医療関係者への応援の時間。教授は笛で!

また、仕事とはべつに、新型コロナウイルスの感染拡大による非常事態下にある世界に向けたオリジナルのコラボレーション・プロジェクトも始めている。『incomplete』(https://www.youtube.com/watch?v=kOaYRL764C0)と名付けられたこのプロジェクトは、現在のところ10名の世界各国のアーティストとの音のコラボレーション。

教授としては2003年にアメリカのイラク侵攻が始まったときに行なった『chain music』プロジェクト(http://www.sitesakamoto.com/chainmusic/)の再来的な気持ちで取り組んでいるようだ。

「ぼくが最初にきっかけとなるモチーフを作って、みなが知り合いに渡して、音楽がどんどん繋がっていくというのが『chain music』だった。モチーフにどう手を加えて、誰につないでいくかというのも受け取ったアーティストの自由。

チェイン・レターみたいに、友達から友達、知り合いから知り合いにどんどん繋がっていくので、ぼくの全然知らない、ジョージアとかギリシアなどの、ふだんあまり縁のない国のミュージシャンにも拡がっていった。それらの中にはそのときだけの人もいれば、クリスチャン・フェネスのようにあのとき知り合っていまもつきあいが続く人もいる。とてもおもしろい試みでした」

ニューヨークでの唯一の外出時に

今回の『incomplete』では、そのクリスチャン・フェネスとのコラボレーションもある。

「この『incomplete』も、いまのこの特殊な時間をみなどう感じているかということを、まあ、音で知りたいというのかな。ぼくはぼくでいま感じている音があるし、この人はどう感じているのかなということを知りたかった。それらの音をあまり音楽として料理せずに、感じている音を生のままでA+Bでガシャンと合わせたような作り方に今回はしています」

つまり、このプロジェクトは音楽というよりも、音のコラボレーションのプロジェクトであるそうだ。

「みんなにも音楽である必要はないと伝えていて、むしろ音楽未満というか、音楽以前のプリミティヴな音がほしい。というのも、ぼく自身がいま、きちんとした音楽を聴くのがつらいということもあります。もちろんこれはぼくの個人的な感情かもしれないから、懐かしいオールディーズやポップスを聴きたいという人も当然いるだろうし、なんとも言えないけれど」

これは、日本では2011年の東日本大震災の直後に多くの人が語っていた心情でもある。非常時に、人は音楽を必要とするか? 映画『CODA』で描かれているように、教授自身も東北の津波で破損したピアノとの出会いをひとつのきっかけに、音楽ならざる音、あるいは音楽を形作る要素そのものである音への関心が強く深まった。それを希求した先に生まれたのが最新アルバム『async』(2017)だった。

家の玄関には除菌グッズを備えている

こうした非常時の中、ニューヨークから日本を眺めていて、あらためて気づいたことがあるという。

「そもそもなぜ日本で感染爆発しないのか、死亡者数が少ないのか。これはぼくに限らず世界中が不思議に思っていることです。日本に限らず韓国や武漢を除く中国など、アジア圏は総じて欧米にくらべると感染者、死亡者が少ない」

その理由を考えて、これはよく報道されているアジアと欧米の食生活、生活習慣のちがいはもちろんあるだろうと思ったそうだ。

「たとえば欧米人に多い糖尿病や肥満、肉食による心臓病といった生活習慣病がアジアでは比較的少ない。新型コロナウイルスは血管を攻撃するので、心臓病や高血圧など血管に関わる病気があると重症化して死に至るケースが多くなりますよね。これはわかる」

そしてもうひとつ気がついた。

「日本にいるときにニュースで見たんですけど、町のふつうのおばちゃんが“コロナ? 人間が調子に乗ったバチでしょ。自然が怒っているのよ”って、さらっと言っていたんです。こういうアミニズム的な発想、自然と人間の関係の捉え方というのは、なかなか欧米人からは出てこない。日本人だと21世紀のいまでもそれがさらっと出てきて、聞くほうも自然に納得してる。これは世界的には非常に特殊なことでしょう。何千年も前から続くアジア的な自然観ですよね。自然に対してやりすぎた報いなんだから自制しようとか、謙虚に暮らしや考え方を見直そうとなる」

こうした日本をふくむアジアの自然観が、感染拡大の中、なんらかの作用を及ぼしているのかもしれないという考察だ。

万が一のため太陽光パネルで非常用電源に蓄電中

ただし、感染者や医療従事者に対するいわれなき差別が世界的に拡がる中、日本でも同じような事象があることには本当に腹を立てている。

「感染者や、日々最前線で闘っている医療従事者への差別や攻撃をするなんて最低ですよ。そんな差別主義者は土星にでも移住すればいいと思いつつ、でもこちらが排外主義者になってはいけないので、そういう考え方はよくないと社会全体で根気よく言っていくしかないですね」

家の小さな中庭で日光浴することも日課に

最後に、この5月に発表されたクラフトワークの共同創始者、フローリアン・シュナイダーの訃報について。

「端的に言うととても残念です。早すぎる。なんと言ったらいいのかな。はっぴいえんどの大滝詠一さんが亡くなったときの気持ちに近い。あのときと同じような欠落感を覚えています。というのも、わりと最近まで元気に音楽を作っているという話も聞いていたんです。ドイツ人のアトム・ハートとここ何年か音楽を一緒に作っていた。どういうものができあがるかずっと期待していました」

フローリアン・シュナイダーとの思い出は、なんといっても1981年にクラフトワークが初来日した際に一緒にディスコに行ったことだ。当時、最先端のニューウェイヴ系のディスコだった六本木の“玉椿”。

「ラルフ・ヒュッターとはその後も『NO NUKES 2012』に出てもらったり、ニューヨークのコンサートのときに会ったりしていますけど、フローリアンと直接会ったのはあのときが最初で最後。そのときフローリアンは地味な灰色のジャンパーを着ていて、まったくファッショナブルじゃない、まるでドイツの町工場の労働者みたいな普通のおじさんに見えた。

そもそも来日前まではクラフトワークに対する幻想が大きくて、生身の人間がやっているんだろうか、ロボットがやっているんじゃないかぐらいの疑いを持っていたほど(笑)。その落差にびっくりしたんだけど、ディスコのフロアではステージどおりのカクカクしたロボットみたいな踊り方をしつつ女の子に声をかけたりも。すごく人間くさいんだかなんだか、ものすごいギャップを感じたことをいまでもありありと憶えています」

文・吉村栄一 写真・KAB America Inc.